山月記 臆病な自尊心と尊大な羞恥心とはどのようなものか?。 ここで視聴してください – 臆病な自尊心と尊大な羞恥心 誰?
これと関連して注目すべきは、李徴の性情を表すものとして「臆病な自尊心」とならんで「尊大な羞恥心」という語句が用いられていることである。自分が持つ才能や能力、容姿が優れているとうぬぼれていることから来る他の人を馬鹿にする気持ちです。 相手を見下す態度が「尊大」と共通していますが、「高慢」の方が自惚れのニュアンスが強いです。 単に偉ぶっている人が「尊大」で、自分の才能にうぬぼれて人々を見下す人は「高慢」だと言えるでしょう。大人になってから読み返す『山月記』は、当時とは異なった教訓を教えてくれる。 ひとつは「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」にはなかなか抗いがたいということだ。 自分でもつまらないと思っているプライドは消えてはくれないもので、ひどく長持ちする。
共感性羞恥の具体例
- ハラハラドキドキしてしまうドッキリ番組が苦手
- 友達が怒られている場面を見て逃げたくなった
- ドラマの告白シーンを見ると恥ずかしくなる
- 作品の登場人物が恥をかきそうなシーンがあると、目を背けてしまう
- 素人が歌番組で歌っているのを見るとそわそわする
山月記でなぜ李徴は虎になったのか?
それは、李徴が最後に袁傪に妻子の行く末を頼み出る場面です。 詩に執着しすぎて、妻子への愛情が乏しい獣のような人間だから獣になったという論理です。
「人間は誰でも猛獣使い」とはどういう意味ですか?
「人間は誰でも猛獣使い」であるとはどういうことか。 次の中から一つ選びなさい。 人間は勇猛果敢な精神をいつの間にか身につけながら生きているということ。 人間は常に孤独を感じており、他者の助けを必要としながら生きているということ。〘名〙 (形動) けだかくて、けがれのないこと。 人柄が立派で潔いこと。 また、そのさま。
併せて即席の詩まで書きとらせた後、李徴は「虎になってしまった理由は、自分に才が無いことが露呈することを恐れ、人々から遠ざかった“臆病な自尊心”と“尊大な羞恥心”である」と告白する。 別れ際、李徴は袁傪に残された妻子のことを頼む。
臆病な自尊心と尊大な羞恥心とはどういう心理なのでしょうか?
プライドが高いゆえに、傷つくことを恐れる「臆病な自尊心」。 恥をかいて自信を失いたくないゆえに、他人を見下す「尊大な羞恥心」。 これは李徴だけでなく、人間が否応なく抱いてしまう心なのではないでしょうか。「月」は李徴の人間の心の象徴であり、月の描写の推移は人間の心が失われていく時間軸を表している。 「月」は李徴の虎としての心の象徴であり、月が満ちていく様子は人間から虎へ変化することを表している。他人の考えや感情を感じ取り、同じような感情を体験することを「共感」と言いますが、さまざまな共感の中でも「恥ずかしい」という感情に深く自分の感情を寄り添わせる状態が「共感性羞恥」です。
概要
- 自己の存在が取るに足らない物と感じ、自己を否定したいと思う「全体的自己非難」
- 恥を感じる状況から逃げたい、もしくは恥を感じた記憶を消したいと思う「回避・隠蔽反応」
- 自分が周囲から孤立したと感じる「孤立感」
- 人に見られている、人に笑われていると思う「被笑感」
変わり果てた姿を見てもらうことによって、哀れな自分という存在を忘れずにいてもらうため。 醜悪な姿を見せることによって、再び自分に会おうという気持ちを起こさせないようにするため。
博学秀才で自信家の李徴は高級官僚となったが、周囲を 見下 みくだ してなじめず、仕事をやめて詩人を志した。 しかし芽が出ず、生活に困窮したために地方官僚の職についた。 かつての同輩はすでに出世しており、かれらの命令を受けることは、李徴の自尊心を著しく傷つけた。 そしてついに李徴は発狂して虎になってしまった。
「刻苦を厭う怠惰」とはどういう意味ですか?
「刻苦」とは「心身を苦しめて、励み努めること」。 「怠惰」は「怠けてだらしないこと」。 つまり「刻苦を厭う怠惰」とは、「必死に努力することを避け、怠けてだらしなかった」という意味の言葉です。
おなじみの中島敦の代表作だが、人は誰でも猛獣使いであり、「猛獣」とは各人の驕りや性情だろう。 うまくコントロールしなければ自身が猛獣と化し、暴走して取り返しのつかないことになる。〘名〙 (形動) けだかくて、けがれのないこと。 人柄が立派で潔いこと。 また、そのさま。